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カード名 瀬古 ツナデ 二つ名 甘噛みの暗殺者 クラスタ 【赤】 HP 3 HP価値 50 アビリティ1 「Ac」 ↷空蝉 コスト ↷スピードカード1枚捨札 自軍はカードを1枚ドローする。 TYPE 八幡学園都市女 収録 Chapter2 トワイライト・ハウリング レアリティ CA フレーバー 「表舞台は好まぬのだが……やむをえまい」 自身をチェック状態、つまり実質①コストでスピードカードをドローに変換するアビリティ。 エンドフェイズ時に捨札になってしまう、使われなかったスピードカードをコストにすることで無駄が無くなる。 ただし、上嶋 ヒルデは「敵軍のスピードカードを捨札にする」アビリティがあるので対面してしまった際は注意が必要。 Q A Q.「↷空蝉」のコスト「スピードカード1枚捨札」を敵軍のスピードカードで支払ってもいいですか? A.いいえ。 コストを支払うプレイヤーの指定が記載されていない場合、それをプレイする側が支払います。 (公式ブログ キャラクターファイル「瀬古 ツナデ」 忍びとは…何なのだろう? 習慣になってしまったその考え事をしている時、一人の主君候補たるものを見かけた。 よし、忍びの術でストーキングして見極めねば (ストーリーより)
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雨多ノ島水族館、地下研究室。ひんやりとした空気がカナメの背中を撫でていく。 「なんで女しか駄目なんスか? こういう危ないのは男――」 カナメは強化ガラス越しに青白い光を放つ人型生物「ツナギ」を見おろして尋ねる。 「危ないのは男に任せとけって? 意外とフェミニストなのね」 隣にいる、雨多ノ島水族館の館長は腕を組んでクスクス笑った。三十後半を迎え腹が出ているのが白衣越しにわかる。 「そんなんじゃないス。ただ、ナツが危ない目に遭うのに俺が指をくわえてるだけなんて」 「嫌だ、と。その気持ち、わかるわあ。前回着用者も私の好きな人で」 「好きとかじゃ」 カナメは眉間にシワを寄せ、実験室のツナギを見る。ドアが開き、ナツが入ってきた。全裸だったので慌てて視線を逸らす。館長はマスカラを塗りたくった目を細めて静かに笑った。 「実はね。ツナギは女性にしか使えないの。子宮や胎盤や卵子と関係した仕組みだから」 ツナギはまるで中身をくり抜かれたヒトのようだった。 ナツは縦に裂けた腹部の縁を広げる。柔らかな突起物が大量にあるその内壁を見てゲンナリするが、意を決して足からヌチャヌチャと入る。 「水棲生物の遺伝子を大量に保有した生体データベースがツナギ。それは様々な水棲生物へと変化する。着用者は、早い話、一度死んで別の生物として再生する」 ツナギはナツを取り込むように、全身に薄く膜を張る。怯えたナツは叫ぼうと口を開くが、声が出ない。身体が一体化して溶け、ゲル状になる。 「その時に自分の卵子を使い自分を生む。受精卵は要請された生物の遺伝子を使い成長する」 加速度的に細胞分裂を繰り返し、すぐに両腕が数十本の触手となった人型の怪物が生まれた。表面は両生類のように分泌液にテラテラと光っている。目の無い巨大クリオネが捕食しようと触手を開放したような――形態だった。 「ツナギは、まさにヒトと他の生物とのつなぎってわけ。もちろんただ着て動くだけなら死ぬのも再生もしなくていいけど、それじゃ能力を全く使えないから」 「でも、あれはもうナツではないんじゃないスか」 例えばあれを輪切りにしても、そこにナツの姿はない。ならナツはどこにいる? カナメの言いたいのは、つまりそういうことだった。 「カナメ君は何をもってナッちゃんをナッちゃんと判断してる? 顔? 性格? 記憶? 性別?」 「全部です」 館長は腹を抱え、イスに座って大声で笑う。カナメは怪訝そうな顔つきで見ている。 「ホントに好きなんだね」 「ナツは――いい奴なんスよ」 「私は、君がいい奴だと思うけどな」 カナメは苦々しい顔をしてそっぽを向いた。 「じゃ、君はあれがナッちゃんじゃないと思うのね?」 目を閉じて首を振る。何の迷いもなく自然と出た動作だった。 「そんなこと思えないス。あいつが気にしてるでしょう」 言っていくうちにカナメは顔が赤くなった。隠すように頭を振る。 「それで俺は何をすればいいんスか」 「君はサポート。遺伝子の要請と細胞分裂のコントロール、ナッちゃんのアシスト。そして二人には」 ツナギを着たナツが顔を上げ、カナメも館長の顔を見た。 「名呑町沿岸部から深海生物の調査をやってもらいます」 カナメは夕暮れの帰り道、制服に戻ったナツに缶コーヒーを買う。ナツは受け取りながらも不思議そうな顔つきだ。 「なん?」 「なんか、悪いと思って」 低い声でカナメはつぶやいた。その声はカモメの鳴き声にかき消されそうなほど小さい。 「うん」 ナツはいつまでもそれを撫でるばかりで、飲もうとしない。 「コーヒー嫌いだったか?」 「好かんね」 深海のような沈黙が辺りを包んだ。遙か遠くで渡船がゆっくりと駅前乗り場に向かっていく。 「なんか悪い。一番危ない役がナツになった」 「別に」 ナツの表情は変わらない。しかしショートカットで日焼けしたうなじに潮風が吹いたとたん、気持ちよさそうに両腕を上げて伸びをした。 「俺なんて水上でサポートしか」 「別にいいんやない」 それでもカナメは俯いて、謝罪を呟き続ける。 「えっと――」 ナツはしばし迷って、スカートを押さえて堤防に登る。両腕を広げてバランスをとりながら言う。 「ウチは泳ぐのが好き。で、カナメはそうやってグチグチ考えるのが好きなんやろ。したらさ、ウチらは最高にツナギ使うのに向いとると思うんよ」 カナメは夕日に照らされたナツの顔を見上げる。ニッと線のような目になって笑うナツに、カナメは嬉しそうに困った顔をした。
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バツナンダリュウオウ(跋難陀竜王) 仏法を守る竜神でハチダイリュウオウ(八大竜王)の一人。 関連: ウバナンダリュウオウ (優婆難陀竜王、同一視) 別名: バツナンダ (跋難陀)
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せつなさいくる【登録タグ CD CDせ yuiCD】 前作 本作 次作 - セツナサイクル メイ yui 流通 即売 通販 発売 2013年4月27日 価格 ¥500(税込) ¥750(税込) サークル GuitarRockStudio@yui CD紹介 yui氏の1stアルバム。 殿堂入りした「セツナサイクル」を筆頭に、これまでにリリースした既存曲に書き下ろしの新曲を加えた全8曲を収録。 アートワークは しめのソラ氏 が手掛ける。 THE VOC@LOiD 超 M@STER 24(超ボーマス2)にて頒布。通販も行われていた。 曲目 セツナサイクル カタムスビ -Remix ver.- ミズイロノソラ ナイトライト モノクロスペクトロ -Remix ver.- ハッピーメリーバースデー And I Remember バイバイスマイル リンク 特設サイト Twitter コメント 楽しみです! -- 晴れのち虹 (2013-04-25 23 24 49) 楽しみ(≧∇≦) -- 名無しさん (2013-11-24 12 06 13) 買わねばっ! -- りぃん (2014-05-24 20 11 56) これは買うー! -- (*´∨`*) (2014-10-17 18 23 37) バイバイスマイル大好き♪ -- aya'mべるYeS (2015-01-11 22 55 26) 名前 コメント
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凶渦(きょうか)の禁断(きんだん) マガツナミ KDL 水/闇文明 (66) 禁断クリーチャー:(種族なし) 66666 ■T・ブレイカー ■このクリーチャーが凶渦災臨した時、相手のエレメントをすべて、持ち主の手札に戻す。 ■相手は、自身の手札の枚数よりコストの小さいクリーチャーを出せず、呪文を唱えられない。 ■このクリーチャーがバトルゾーン以外のゾーンにあれば、自分はゲームに負ける。 凶渦災臨前:《禁断の厄海 ワダツナミ》 作者:UNKNOWN 追記:殿堂解除しました さらに追記:能力を調整しました 概要 《禁断の厄海 ワダツナミ》が凶渦災臨した姿。 登場時、相手のエレメントをすべてバウンスし、さらに相手に強烈なカード使用ロックをかける常在型能力を持つ。 ただし、場を離れるとゲームに敗北するという強烈なデメリットも持つ為注意。 フレーバーテキスト その禍津波が世界のすべてを洗い流す。 評価 名前 コメント
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The story below is originally published on Mainichi Daily News by Mainichi Shinbun (http //mdn.mainichi.jp). They admitted inventing its kinky features, or rather deliberately mistranslating them from the original gossip magazine. In fact, this is far from the general Japanese behavior or sense of worth. このページは、毎日新聞事件の検証のための配信記事対訳ページです。直接ジャンプして来られた方は、必ずFAQをお読みください。 ※ この和訳はあくまでもボランティアの方々による一例であり、翻訳の正確さについては各自判断してください。もし誤訳(の疑い)を発見した場合には、直接ページを編集して訂正するか翻訳者連絡掲示板に報告してください。 Guess who's not coming to dinner. . .ディナーに来なかったのは誰か、あててごらん 参考資料 拡散状況 関連ページ Guess who s not coming to dinner. . . ディナーに来なかったのは誰か、あててごらん 0 Guess who s not coming to dinner. . . 2006,01,21 Shukan Bunshun 1/19 By Masuo Kamiyama ディナーに来なかったのは誰か、あててごらん 週刊文春 1/19 カミヤママスオ記 1 Last Dec. 23 was Emperor Akihito s 72nd birthday, and Japan s Constitutional monarch was occupied with a flurry of activities at the Imperial Palace,such as a traditional birthday ceremony known as the "Tenchosai." From 5 00 pm,the Emperor greeted some 30 illustrious guests at a tea party, including author Hiroyuki Agawa and former ambassador to the U.S. Nobuo Matsunaga. 去年の十二月二十三日は明仁天皇の七十二歳のお誕生日で、日本の立憲君主は、「天長祭」として知られている伝統的な誕生日の儀式といった、皇居での相次ぐ行事で忙しかった。 午後五時から、天皇はお茶会で30人ほどの高名なゲスト ―― 作家の阿川弘之や元駐米大使松永信雄を含む ―― を出迎えた。 2 The guests having paid their respects and departed, reports Shukan Bunshun (1/19), at around 6 00 pm the Emperor s three granddaughters, Princess Mako, Princess Kako and Princess Aiko were ushered into a private audience at which to wish His Majesty a happy birthday. 週刊文春(1/19)の報告によると、ゲストは敬意を表して退出し、午後六時頃に天皇の三人の孫娘・眞子内親王、佳子内親王、愛子内親王は、親密な謁見の場に案内されて、そこで天皇陛下に誕生日のお祝いを述べた。 3 Then from 6 30, the Imperial Family prepared to sit down for a special celebratory dinner, known as an "Oiwai Gozen." そして六時半から、皇族は「御祝御前」として知られる特別な夕食の儀式のために着席する支度をした。 4 "The Oiwai Gozen is only held on the birthdays of the Emperor and Empress and on New Year s day," explains a source responsible for food services in the palace. "The kitchen plans a special meal of seasonal dishes divided into two servings. The second includes a grilled sea bream (a fish served on festive occasions). 「御祝御前は天皇陛下と皇后陛下の誕生日と元日にしか行われません」と、皇居の食事をサービスする責任のある関係者は説明する。 「厨房は、二回に分けて配膳をする季節の料理の特別な食事を予定します。 二の膳には焼いた鯛(祝賀のさいに料理される魚)が含まれます。 5 "Compared with the royals regular daily fare, which usually consists of a soup and three dishes, the Oiwai Gozen requires lots of extra work to prepare and serve." 「通常一汁三菜からなる皇室の通常の日頃の料理と比べると、御祝御前には、準備して給仕するための多くのいつもより多い仕事が要求されます」 6 In addition to Emperor Akihito and Empress Michiko, Crown Prince Naruhito and Crown Princess Masako,Prince Akishino and Princess Kiko and the Emperor s daughter, former Princess Nori (who is now referred to as Sayoko Kuroda) and her commoner husband, Yoshiki Kuroda, were to attend. 明仁天皇と美智子皇后に加えて、徳仁皇太子、雅子皇太子妃、秋篠親王、紀子親王妃、元内親王紀宮(現在は黒田サヨコ)と彼女の平民の夫・黒田慶樹が出席することになっていた。 7 As the meal is taken in the VIP dining room and conducted in more formal surroundings, small children generally are not expected to take part. But 4-year old Princess Aiko became cranky, whining that since her mother would attend the meal, she wanted to as well. And when a female palace attendant tried to take her home, she began throwing a tantrum, according to the weekly. お食事は来賓用御食堂で格式の高い状況で行われるため、小さな子供たちは通常参加されないことになっている。 しかし四歳の愛子内親王が不機嫌になり、母親がお食事に参加するのだから、自分もやはりそうしたいと泣き声でいった。 そして宮廷女官が内親王を家に帰らそうとしたとき、週刊文春によると、内親王は駄々をこねはじめた。 8 Meanwhile the dinner was starting to run late. その間に夕食の時間は遅れだし始めた。 9 To quiet Princess Aiko down, her mother, Crown Princess Masako, departed the palace at 6 55 for her residence in nearby Togu Palace. Crown Prince Naruhito remained behind in the dining room with the rest of the family, awaiting his wife s return. 愛子内親王を落ち着かせるため、母親の雅子皇太子妃は、近くの東宮御所にある住居に向けて、六時五十五分に皇居を出発しました。 徳仁皇太子は他の皇族と一緒に御食堂に残って、雅子皇太子妃の帰りを待ちました。 10 "Princess Masako was expected to return to the palace as soon as Princess Aiko calmed down," a palace source relates. "But a miscommunication occurred." 「雅子皇太子妃は愛子内親王が落ち着いたらすぐに皇居に戻るものと思われていました」と、皇居の関係者は物語る。「しかし、問い合わせの連絡に齟齬が起りました」 11 Expecting Crown Princess Masako to be back at any moment, the family delayed the start of the meal. But with the timing of the formal dinner thrown askew, the chefs and servants at the palace were thrown into a tizzy. 雅子皇太子妃がいつ帰るかと待ちながら、皇族は食事の開始を遅らせた。 しかし御祝御前のタイミングがずれたこともあって、皇居の料理人と出仕は興奮状態になった。 12 "Based on when the family is seated at the table, they have to precisely time when to start heating the dishes and steaming the rice. The dishes can t be pre-cooked and re-heated --- that s never done in the palace," a source in the food service section relates. 「皇族がテーブルに着く時を基準にして、かれらは料理を加熱したり米を炊いたりする時間を正確に決めます。 料理をあらかじめ料理しておいたり温めなおしたりすることはできません――そんなことは皇居では決して行われません」と、大膳課関係者は物語る。 13 By the time Crown Princess Masako was finally whisked back to the dining room it was already 9 42, i.e., two hours and 47 minutes since she had departed the palace with Princess Aiko, Shukan Bunshun says. 雅子皇太子妃がやっと御台所に足早に戻ったときは、すでに九時四十二分になっており、すなわち皇太子妃が愛子内親王を連れて皇居を出発してから二時間四十七分がたっていた、と週刊文春はいう。 14 "It seems Crown Princess Masako ate supper together with Princess Aiko and then put her to bed before returning to the palace," a source within Togu Palace divulges. 「どうやら、雅子皇太子妃は愛子内親王といっしょに軽食を食べて、それから愛子様を寝室に連れて行ってから皇居に戻ったようです」と、東宮御所の関係者が打ち明ける。 15 "Whatever else you say, it was the Emperor s birthday," says a palace source, woefully slumping his shoulders. "Even if treated as just a private gathering, the Emperor, Empress and Crown Prince were present and since the whole Family was assembled to congratulate his majesty, to have kept him waiting like this is absolutely unacceptable. 「何と言っても天皇陛下の誕生日です」と、いたましげに肩を落としながら皇居の関係者は言う。 「たとえたんなる私的な集いとして扱われるとはいえ、天皇、皇后、皇太子が出席して皇族全体が集まって陛下をお祝いするのですから、こんなふうに陛下を待たせ続けることは絶対に許されません。 16 "Likewise the presence of Mr. Kuroda (the Emperor s new son-in-law) made this a special occasion. So it turned out to be a bitter birthday indeed." さらに、黒田氏(天皇の新しい義理の息子)の出席が御祝御前を特別な行事にしました。 というわけで、とても残念な誕生日になりました」 17 Shukan Bunshun adds that as legislators are mulling revision of the Imperial Succession Law to enable a female to sit on the Chrysanthemum Throne, this incident raises further concerns over Princess Aiko s nurturing. 女性が菊の玉座につけるようにする皇位継承法の改正を国会議員たちが、討議しているので、この事件は愛子内親王の育て方についてさらなる懸念を投げかけている、ということを週刊文春はつけくわえる。 18 The Imperial Household Agency s spokesperson did not deny the incident, but blamed it on "futegiwa" (bungling) by Crown Princess Masako s personal attendants for the miscommunication with the palace. 宮内庁の広報者はこの出来事を否定しないが、皇居との連絡がうまくいかなかったことについて、雅子皇太子妃の側近による「フテギワ」(手際の悪さ)のせいにする。 19 "As someone who d covered the Imperial Family for 30 years, I feel this is really regrettable," remarks Shizuoka Welfare University professor Hiroshi Takahashi, a former palace journalist. "I wonder how His and Her Majesties feel about the importance of Crown Princess Masako s presence." 「三十年にわたって皇族を担当した者としては、私は今回の件を大変遺憾に思います」と、元皇室記者である静岡福祉大学の高橋宏教授は、意見を述べる。 「両陛下が雅子皇太子妃の存在の重要性をどのように感じているのでしょうか」 20 The next day, Christmas Eve, the Crown Prince and Crown Princess were reported to have taken a drive to view the colorful holiday illuminations in the Marunouchi district. But on Dec. 25, Crown Princess Masako did not appear at a ceremony commemorating the anniversary of Emperor Taisho s ascendance to the throne,Shukan Bunshun says. 翌日のクリスマスイブに、皇太子と皇太子妃は丸の内の色とりどりな休日のイルミネーションを見にドライブに行ったことが報道されている。しかし十二月二十五日には、大正天皇の玉座への即位の記念日を祝う儀式に姿を現さなかった、と週刊文春はいう。 21 On New Year s Day, when the next Oiwai Gozen meal was served, Crown Princess Masako once again failed to make an appearance --- the reason being that Princess Aiko was running a 37-degree fever. The Crown Prince,the weekly says, attended the dinner by himself. (By Masuo Kamiyama, WaiWai People s Pick Writer) また御祝御前が給仕される日である元日には、雅子皇太子妃はまたしても出席しそこねた――愛子内親王が三十七度の熱を出しているという理由で。 週刊文春がいうには、皇太子は、御祝御前に自分一人だけで出席した。 22 January 21, 2006 2006年1月21日 参考資料 阿川弘之 http //ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%B7%9D%E5%BC%98%E4%B9%8B 松永信雄 http //www3.grips.ac.jp/~oral/Japanese/Summary/matsunaga.htm http //kotobank.jp/word/%E6%9D%BE%E6%B0%B8%E4%BF%A1%E9%9B%84 拡散状況 海外ブログに記事が及ぼした影響 http //tokyolifer.spaces.live.com/blog/cns!C15CE2153B2A6689!1651.entry 英語サイト 部分転載:http //theinternetforum.net/royalforum/index.php/topic,13789.0.html 関連ページ WaiWaiの記事を転載した英語サイト:T 宮内庁 毎日新聞英語版から配信された記事2006年 海外ブログに記事が及ぼした影響
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113.六朝清談之習 清談起於魏正始中(齊王芳)。何晏、王弼祖述老莊,謂天地萬物,皆以無爲本,無者也,開物成務,無往而不存者也。(王衍傳)是時阮籍亦素有高名,口談浮虚,不遵禮法。(裴頠傳)籍嘗作大人先生傳,謂世之禮法君子,如蝨之處褌。(阮籍傳)其後王衍、樂廣慕之,倶宅心事外,名重於時。天下言風流者,以王、樂爲稱首。(樂廣傳)後進莫不競爲浮誕,遂成風俗。(王衍傳)學者以老莊爲宗而黜六經;談者以虚蕩爲辨而賤名檢;行身者以放濁爲通而狹節信,仕進者以苟得爲貴而鄙居正,當官者以望空爲高而笑勤恪。(愍帝紀論)其時未嘗無斥其非者。如劉頌屢言治道。傅咸毎糾邪正,世反謂之俗吏。裴頠又著崇有論以正之。(頠傳)江惇亦著通道崇檢論以矯之。(惇傳)卞壼斥王澄、謝鯤,謂悖禮傷教,中朝傾覆,實由於此。(壼傳)范寧亦謂王弼、何晏二人之罪,深於桀紂。(寧傳)應詹謂元康以來,賤經尚道,永嘉之弊由此。(詹傳)熊遠、陳頵各有疏論。莫不大聲疾呼,欲挽回頽俗。而習尚已成,江河日下,卒莫能變也。今散見於各傳者,裴遐善言元理,音詞清暢,泠然若琴瑟。嘗與郭象談論,一座盡服。(遐傳)衛玠善玄言,毎出一語,聞者無不咨嘆,以爲入微。王澄有高名,毎聞玠言,輒嘆息絕倒。後過江與謝鯤相見,欣然言論終日。王敦謂鯤曰:「昔王輔嗣吐金聲於中朝,此子復玉振於江表。不意永嘉之末,復聞正始之音。」(玠傳)王衍爲當時談宗,自以論易略盡,然亦有未了。毎曰:「不知此生當見有能通之者否?」及遇阮修談易,乃嘆服焉。(修傳)王戎問阮瞻曰:「聖人貴名教,老莊明自然,其指同異?」瞻曰:「將毋同。」戎即辟之,時人謂之「三語掾」。(瞻傳)郭象善老莊,時人以爲王弼之亞。(庾敳傳)桓温嘗問劉惔「會稽王更進耶?」惔曰:「極進,然是第三流耳!」温曰:「第一流是誰?」惔曰:「故是我輩。」(惔傳)張憑初詣劉惔,處之下座,適王濛來,清言有所不通,憑即判之,惔驚服。(憑傳)此可見當時風尚大概也。其中未嘗無好學者,然所學亦正以供談資。向秀好老莊之學,嘗註解之,讀者超然心悟。郭象又從而廣之,儒墨之跡見鄙,道家之風遂盛。(秀傳)潘京與樂廣談,廣深嘆之,謂曰:「君天才過人,若加以學,必爲一代談宗。」京遂勤學不倦。(京傳)王僧虔戒子書曰:「汝未知輔嗣何所道,平叔何所説,而便盛於麈尾,自稱談士,此最險事。」(僧虔傳)是當是時父兄師友之所講求,專推究老莊,以爲口舌之助,五經中惟崇易理,其他盡閣束也。至梁武帝始崇尚經學,儒術由之稍振,然談義之習已成。所謂經學者,亦皆以爲談辨之資。武帝召岑之敬升講座,敕朱异執孝經唱士孝章,帝親與論難之,敬剖釋縱橫,應對如響。(之敬傳)簡文爲太子時,出士林館,發孝經題,張譏議論往復,甚見嗟賞。其後周弘正在國子監,發周易題,譏與之論辨,弘正謂人曰:「吾毎登座,見張譏在席,使人凜然。」(譏傳)簡文使戚袞説朝聘儀,徐摛與往復,袞精采自若。(袞傳)簡文嘗自升座説經,張正見預講筵,請決疑義。(正見傳)伏曼容宅在瓦官寺東,毎升座講經,生徒常數十百人。(曼容傳)袁憲與岑文豪同侯周弘正,弘正將登講座,適憲至,即令憲樹義,時謝岐、何妥並在座,遞起義端,憲辨論有餘,到漑曰:「袁君正有後矣!」(憲傳)嚴植之通經學,館在潮溝,講説有區段次第,毎登講,五館生畢至,聽者千餘。(植之傳)鮑皦在太學,有疾,請紀少瑜代講。少瑜善談吐,辨捷如流。(少瑜傳)崔靈恩自魏歸梁爲博士,性拙樸無文采,及解析經義甚有精致,舊儒咸重之。(靈恩傳)沈峻精周官,開講時,群儒劉喦、沈熊之徒,並執經下座,北面受業。(峻傳)是當時雖從事於經義,亦皆口耳之學,開堂升座,以才辨相爭勝,與晉人清談無異,特所談者不同耳。況梁時所談,亦不專講五經。武帝嘗於重雲殿自講老子,徐勉舉顧越論義,越音響若鐘,咸嘆美之。(越傳)簡文在東宮,置宴元儒之士。(戚袞傳)邵陵王綸講大品經,馬樞講維摩、老子,同日發題,道俗聽者二千人,王謂衆曰:「馬學士論義,必使屈伏,不得空具主客。」於是各起辨端,樞轉變無窮,論者咸服。(樞傳)則梁時五經之外,仍不廢老莊,且又增佛義,晉人虚偽之習,依然未改,且又甚焉。風氣所趨,積重難返。直至隋平陳之後,始掃除之。蓋關陝樸厚,本無此風,魏周以來,初未漸染,陳人之遷於長安者,又已衰不振,故不禁而自消滅也。 按漢時本有講經之例。宣帝甘露三年,詔諸生講五經異同。蕭望之等平奏其議,上親臨決。又施讎論五經於石渠閣。章帝建初四年,亦詔博士、議郎、郎官及諸生、諸儒,會白虎觀,講議五經異同,使五官中將魏應承制問,侍中淳于恭奏帝親稱制臨決,作白虎奏議,今白虎通是也。然此特因經義紛繁,各家師説互有異同,故聚群言以折衷之,非以此角勝也。至梁時之升座説經,則但炫博鬭辯而已。 前頁 『廿二史箚記』巻八 次頁 九品中正 113.六朝清談之習 清談用麈尾
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MS-14JG マツナガ専用ゲルググJ 性能 COST EXP SIZE HP EN 攻 防 機 移 宇 空 地 水上 水中 18800 410 M 12500 110 22 22 25 6 B - B - C 武装 名前 威力 EN MP 射程 属性 命中 CRI 備考 ビームサーベル 3500 14 0 1~1 BEAM格闘 85% 5% 大型ビームマシンガン 3400 16 0 2~4 BEAM連射 90% 5% 大型ビームマシンガン(狙撃) 3600 16 0 5~9 BEAM射撃 85% 25% 狙撃 4000 25 0 MAP MAP 100% 0% アビリティ 名前 効果 備考 支援防御可能 「支援防御」コマンド使用可能。味方の攻撃を代わりに引き受ける。リーダーエリア内に位置する同チームのユニットが反撃時のみ、使用可能。 開発元 開発元 開発不可 設計元 設計元A 設計元B マツナガ専用高機動型ザクII ゲルググJ 配置 編成時にゲルググJにシン・マツナガをセットする。 開発先 開発先A 開発先B 開発先C 開発先D 2 ゲルググ 3 ゲルググM 4 ガルバルディα 4 ケンプファー 捕獲可能ステージ ステージ ブレイク詳細 捕獲不可 備考 登場作品『機動戦士ガンダム めぐりあい宇宙』(ゲーム)、分類『ゲーム系』 なぜこいつはMSVでその他扱いではないんだと思われそうだが、ビジュアル設定されたのがゲームからというのが理由と思われる。 ゲルググJにシン・マツナガを搭乗させることでプロフィール登録が可能だが生産登録はされない。生産登録するためには設計する必要がある。 基本性能が向上し、大型ビームマシンガンのみが威力が増える。開発先は素体と変化が無い。 全武装BEAMにつき、ビームジェネレーター&一点突破推奨。 狙撃のCR率が高いので、威圧や騎士道などを合わせると一点突破なしでもバリアを貫くことが多い。マツナガの白狼も相性がいい。 大型ビームマシンガン(狙撃)もどう見ても連射しているがBEAM射撃扱い。マシンガンで狙撃ってのもすごい話だが。 本機は狙撃機だが、主であるシン・マツナガは格闘・守備・反応に優れたインファイタータイプである。まぁモビルファイター勢みたいに射撃が低いわけではないので問題はないが。 マツナガ搭乗なら、白狼やジオンの魂で非常に高火力な狙撃機となる。
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唐書巻一百二十四 列伝第四十九 姚崇 奕 合 勗 宋璟 渾 姚崇字元之、陝州硤石人。父懿、字善懿、貞観中、為巂州都督、贈幽州大都督、謚文献。 崇少倜儻、尚氣節、長乃好学。仕為孝敬挽郎、舉下筆成章、授濮州司倉参軍。五遷夏官郎中、契丹擾河北、兵檄叢進、崇奏決若流、武后賢之、即拜侍郎。后嘗語左右:「往周興、來俊臣等数治詔獄、朝臣相逮引、一切承反。朕意其枉、更畀近臣臨問、皆得其手牒不冤、朕無所疑、即可其奏。自俊臣等誅、遂無反者、然則向論死得無冤邪?」崇曰:「自垂拱後、被告者類自誣。當是時、以告言為功、故天下號曰『羅織』、甚於漢之鉤黨。雖陛下使近臣覆訊、彼尚不自保、敢一搖手以悖酷吏意哉!且被問不承、則重罹其慘、如張虔勗、李安靜等皆是也。今賴天之霊、發寤陛下、凶豎殲夷、朝廷乂安、臣以一門百口保内外官無復反者。陛下以告牒置弗推、後若反有端、臣請坐知而不告。」后悅曰:「前宰相務順可、陷我為淫刑主、聞公之言、乃得朕心。」賜銀千兩。 聖暦三年、進同鳳閣鸞臺平章事。遷鳳閣侍郎、俄兼相王府長史、以母老納政歸侍、乃詔以相王府長史侍疾、月餘、復兼夏官尚書、同鳳閣鸞臺三品。崇建言:「臣事相王、而夏官本兵、臣非惜死、恐不益王。」乃詔改春官。張易之私有請於崇、崇不納、易之譖於后、降司僕卿、猶同鳳閣鸞臺三品。出為霊武道大総管。 張柬之等謀誅二張、崇適自屯所還、遂参計議。以功封梁県侯、實封二百戸。戸遷上陽宮、中宗率百官起居、王公更相慶、崇獨流涕。柬之等曰:「今豈涕泣時邪?恐公禍由此始。」崇曰:「比與討逆、不足以語功、然事天后久、違舊主而泣、人臣終節也、由此獲罪甘心焉。」俄為亳州刺史。後五王被害、而崇獨免。歴宋、常、越、許四州。睿宗立、拜兵部尚書、同中書門下三品、進中書令。 玄宗在東宮、太平公主干政、宋王成器等分典閑厩、禁兵。崇與宋璟建請主就東都、出諸王為刺史、以壹人心。帝以謂主、主怒。太子懼、上疏以崇等惎間王室、請加罪、貶為申州刺史。移徐、潞二州、遷揚州長史。政條簡肅、人為紀徳于碑。徙同州刺史。 先天二年、玄宗講武新豊。故事、天子行幸、牧守在三百里者、得詣行在。時帝亦密召崇、崇至、帝方獵渭濱、即召見、帝曰:「公知獵乎?」對曰:「少所習也。臣年二十、居広成沢、以呼鷹逐獸為樂。張憬蔵謂臣當位王佐、無自棄、故折節讀書、遂待罪将相。然少為獵師、老而猶能。」帝悅、與倶馳逐、緩速如旨、帝歡甚。既罷、乃咨天下事、不知倦。帝曰:「卿宜遂相朕。」崇知帝大度、鋭于治、乃先設事以堅帝意、即陽不謝、帝怪之。崇因跪奏:「臣願以十事聞、陛下度不可行、臣敢辭。」帝曰:「試為朕言之。」崇曰:「垂拱以來、以峻法繩下。臣願政先仁恕、可乎?朝廷覆師青海、未有牽復之悔。臣願不倖邊功、可乎?比來壬佞冒觸憲網、皆得以寵自解。臣願法行自近、可乎?后氏臨朝、喉舌之任出閹人之口。臣願宦豎不與政、可乎?戚里貢献以自媚于上、公卿方鎮寖亦為之。臣願租賦外一絶之、可乎?外戚貴主更相用事、班序荒雜。臣請戚屬不任臺省、可乎?先朝褻狎大臣、虧君臣之嚴。臣願陛下接之以礼、可乎?燕欽融、韋月将以忠被罪、自是諍臣沮折。臣願群臣皆得批逆鱗、犯忌諱、可乎?武后造福先寺、上皇造金仙、玉真二観、費鉅百万。臣請絶道佛營造、可乎?漢以禄、莽、閻、梁亂天下、国家為甚。臣願推此鑒戒為万代法、可乎?」帝曰:「朕能行之。」崇乃頓首謝。翌日、拜兵部尚書、同中書門下三品。封梁国公。遷紫微令。固辭實封、乃停舊食、賜新封百戸。 中宗時、近戚奏度僧尼、温戸彊丁因避賦役。至是、崇建言:「佛不在外、悟之于心。行事利益、使蒼生安穩、是謂佛理。烏用姦人以汨真教?」帝善之、詔天下汰僧偽濫、髮而農者餘万二千人。 崇嘗於帝前序次郎吏、帝左右顧、不主其語。崇懼、再三言之、卒不答、崇趨出。内侍高力士曰:「陛下新即位、宜與大臣裁可否。今崇亟言、陛下不應、非虚懐納誨者。」帝曰:「我任崇以政、大事吾當與決、至用郎吏、崇顧不能而重煩我邪?」崇聞乃安。由是進賢退不肖而天下治。 開元四年、山東大蝗、民祭且拜、坐視食苗不敢捕。崇奏:「詩云:『秉彼蟊賊、付畀炎火。』漢光武詔曰:『勉順時政、勸督農桑。去彼螟蜮、以及蟊賊。』此除蝗誼也。且蝗畏人易驅、又田皆有主、使自救其地、必不憚勤。請夜設火、坎其旁、且焚且瘞、蝗乃可盡。古有討除不勝者、特人不用命耳。」乃出御史為捕蝗使、分道殺蝗。汴州刺史倪若水上言:「除天災者當以徳、昔劉聰除蝗不克而害愈甚。」拒御史不應命。崇移書誚之曰:「聰偽主、徳不勝祅、今祅不勝徳。古者良守、蝗避其境、謂脩徳可免、彼将無徳致然乎?今坐視食苗、忍而不救、因以無年、刺史其謂何?」若水懼、乃縱捕、得蝗十四万石。時議者喧譁、帝疑、復以問崇、對曰:「庸儒泥文不知變。事固有違經而合道、反道而適権者。昔魏世山東蝗、小忍不除、至人相食。後秦有蝗、草木皆盡、牛馬至相噉毛。今飛蝗所在充滿、加復蕃息。且河南、河北家無宿蔵、一不穫則流離、安危繋之。且討蝗縱不能盡、不愈於養以遺患乎?」帝然之。黄門監盧懐慎曰:「凡天災安可以人力制也!且殺蟲多、必戻和氣。願公思之。」崇曰:「昔楚王吞蛭而厥疾瘳、叔敖斷福乃降。今蝗幸可驅、若縱之、穀且盡、如百姓何?殺蟲救人、禍歸於崇、不以諉公也!」蝗害訖息。 於是、帝方躬万機、朝夕詢逮、它宰相畏帝威決、皆謙憚、唯獨崇佐裁決、故得專任。崇第賒僻、因近舎客廬。會懐慎卒、崇病痁移告、凡大政事、帝必令源乾曜就咨焉。乾曜所奏善、帝則曰:「是必崇畫之。」有不合、則曰:「胡不問崇?」乾曜謝其未也、乃已。帝欲崇自近、詔徙寓四方館、日遣問食飲起居、高醫、尚食踵道。崇以館局華大、不敢居。帝使語崇曰:「恨不處禁中、此何避?」久之、紫微史趙誨受夷人賕、當死。崇素親倚、署奏營減、帝不悅。時曲赦京師、惟誨不原。崇惶懼、上還宰政、引宋璟自代、乃以開府儀同三司罷政事。 帝将幸東都、而太廟屋自壞、帝問宰相、宋璟、蘇頲同對曰:「三年之喪未終、不可以行幸。壞壓之變、天所以示教戒、陛下宜停東巡、脩徳以答至譴。」帝以問崇、對曰:「臣聞隋取苻堅故殿以營廟、而唐因之。且山有朽壤乃崩、況木積年而木自當乎。但壞與行會、不縁行而壞。且陛下以関中無年、輸餉告勞、因以幸東都、所以為人不為己也。百司已戒、供擬既具、請車駕如行期。舊廟難復完、盍奉神主舎太極殿?更作新廟、申誠奉、大孝之徳也。」帝曰:「卿言正契朕意。」賜絹二百匹、詔所司如崇言、天子遂東。因詔五日一参、入閤供奉。 八年、授太子少保、以疾不拜。明年卒、年七十二。贈揚州大都督、謚曰文献。十七年、追贈太子太保。 崇析貲産、令諸子各有定分。治令曰: 比見達宦之裔多貧困、至銖尺是競、無論曲直、均受嗤詆。田宅水磑既共有之、至相推倚以頓廢。陸賈、石苞、古達者也、亦先有定分以絶後爭。 昔楊震、趙咨、盧植、張奐咸以薄葬、知真識去身、貴速朽耳。夫厚葬之家流于俗、以奢靡為孝、令死者戮尸暴骸、可不痛哉!死者無知、自同糞土、豈煩奢葬。使其有知、神不在柩、何用破貲徇侈乎?吾亡、斂以常服、四時衣各一稱。性不喜冠衣、毋以入墓。紫衣玉帶、足便於體。 今之佛經、羅什所譯、姚興與之對翻、而興命不延、国亦隨滅。梁武帝身為寺奴、齊胡太后以六宮入道、皆亡国殄家。近孝和皇帝發使贖生、太平公主、武三思等度人造寺、身嬰夷戮、為天下笑。五帝之時、父不喪子、兄不哭弟、致仁寿、無凶短也。下逮三王、国祚延久、其臣則彭祖、老聃皆得長齢、此時無佛、豈抄經鑄像力邪?縁死喪造經像、以為追福。夫死者生之常、古所不免、彼經與像何所施為?兒曹慎不得為此! 崇尤長吏道、處決無淹思。三為宰相、常兼兵部、故屯戍斥候、士馬儲械、無不諳記。玄宗初立、賓礼大臣故老、雅尊遇崇、毎見便殿、必為之興、去輒臨軒以送、它相莫如也。時承権戚干政之後、綱紀大壞、先天末、宰相至十七人、臺省要職不可数。崇常先有司罷冗職、脩制度、擇百官各當其材、請無広釋道、無数移吏。繇是天子責成于下、而権歸于上矣。 然資権譎。如為同州、張説以素憾、諷趙彦昭劾崇。及當国、説懼、潛詣岐王申款。崇它日朝、衆趨出、崇曳踵為有疾状、帝召問之、對曰:「臣損足。」曰:「無甚痛乎?」曰:「臣心有憂、痛不在足。」問以故、曰:「岐王陛下愛弟、張説輔臣、而密乘車出入王家、恐為所誤、故憂之。」於是出説相州。魏知古、崇所引、及同列、稍輕之、出攝吏部尚書、知東都選、知古憾焉。時崇二子在洛、通賓客饋遺、憑舊請託。知古歸、悉以聞。他日、帝召崇曰:「卿子才乎、皆安在?」崇揣知帝意、曰:「臣二子分司東都、其為人多欲而寡慎、是必嘗以事干魏知古。」帝始以崇私其子、或為隠、微以言動之。及聞、乃大喜、問:「安從得之?」對曰:「知古、臣所薦也、臣子必謂其見徳而請之。」帝於是愛崇不私而薄知古、欲斥之。崇曰:「臣子無状、橈陛下法、而逐知古、外必謂陛下私臣。」乃止、然卒罷為工部尚書。 崇始名元崇、以與突厥叱剌同名、武后時以字行。至開元世、避帝號、更以今名。三子:彝、、弈、皆至卿、刺史。 弈少脩謹。始、崇欲使不越官次而習知吏道、故自右千牛進至太子舎人、皆平遷。開元中、有事五陵、有司以鷹犬從、弈曰:「非礼也。」奏罷之。請治劇、為睢陽太守、召授太僕卿。後為尚書右丞。 子閎、居右相牛仙客幕府。仙客病甚、閎彊使薦弈及盧奐為宰相、仙客妻以聞、閎坐死、弈貶永陽太守、卒。 曾孫合、勗。合、元和中進士及第、調武功尉、善詩、世號姚武功者。遷監察御史、累轉給事中。奉先、馮翊二県民訴牛羊使奪其田、詔美原主簿朱儔覆按、猥以田歸使、合劾發其私、以地還民。歴陝虢観察使、終祕書監。 勗字斯勤。長慶初擢進士第、数為使府表辟、進監察御史、佐鹽鉄使務。累遷諫議大夫、更湖、常二州刺史。為宰相李徳裕厚善。及徳裕為令狐綯等譖逐、擿索支黨、無敢通勞問。既居海上、家無資、病無湯劑、勗数饋餉候問、不傅時為厚薄。終夔王傅。自作寿蔵於万安山南原崇塋之旁、署兆曰「寂居穴」、墳曰「復真堂」、中剟土為曰「化臺」、而刻石告後世。 宋璟、邢州南和人。七世祖弁為元魏吏部尚書。璟耿介有大節、好学、工文辭、舉進士中第。調上黨尉、為監察御史、遷鳳閣舎人。居官鯁正、武后高其才。張易之誣御史大夫魏元忠有不臣語、引張説為驗、将廷辯、説惶遽、璟謂説曰:「名義至重、不可陷正人以求苟免。縁此受謫、芬香多矣。若不測者、吾且叩閤救、将與子偕死。」説感其言、以實對、元忠免死。 璟後遷左臺御史中丞、會飛書告張昌宗引相工観吉凶者、璟請窮治、后曰:「易之等已自言於朕。」璟曰:「謀反無容以首原、請下吏明国法。易之等貴寵、臣言之且有禍、然激於義、雖死不悔。」后不懌、姚遽伝詔令出、璟曰:「今親奉徳音、不煩宰相擅宣王命。」后意解、許收易之等就獄。俄詔原之、敕二張詣璟謝、璟不見、曰:「公事公言之、若私見、法無私也。」顧左右歎曰:「吾悔不先碎豎子首而令亂国經。」嘗宴朝堂、二張列卿三品、璟階六品、居下坐。易之諂事璟、虚位揖曰:「公第一人、何下坐?」璟曰:「才劣品卑、卿謂第一何邪?」是時朝廷以易之等内寵、不名其官、呼易之「五郎」、昌宗「六郎」。鄭善果謂璟曰:「公奈何謂五郎為卿?」璟曰:「以官正當為卿。君非其家奴、何郎之云?」會有喪、告滿入朝、公卿以次謁、通礼意。易之等後至、促步前、璟舉笏揖唯唯。故積怨、常欲中傷、后知之、得免。然以数忤旨、詔按獄揚州、璟奏:「按州県纔監察御史職耳。」又詔按幽州都督屈突仲翔、辭曰:「御史中丞非大事不出使。仲翔罪止贓、今使臣往、此必有危臣者。」既而詔副李嶠使隴、蜀、璟復言:「隴右無變、臣以中丞副李嶠、非朝廷故事。」終辭。易之初冀璟出則劾奏誅之、計不行、乃伺璟家婚礼、将遣客刺殺之。有告璟者、璟乘庳車舎他所、刺不得發。俄二張死、乃免。 神龍初、為吏部侍郎。中宗嘉其直、令兼諫議大夫、内供奉、仗下與言得失。遷黄門侍郎。武三思怙烝寵、数有請于璟。璟厲答曰:「今復子明辟、王宜以侯就第、安得尚干朝政、獨不見産、禄事乎?」後韋月将告三思亂宮掖、三思諷有司論大逆不道、帝詔殊死、璟請付獄按罪、帝怒、岸巾出側門、謂璟曰:「朕謂已誅矣、尚何請?」璟曰:「人言后私三思、陛下不問即斬之、臣恐有竊議者、請按而後刑。」帝愈怒。璟曰:「請先誅臣、不然、終不奉詔。」帝乃流月将嶺南。會還京師、詔璟権検校并州長史、未行、又検校貝州刺史。時河北水、歳大饑、三思使斂封租、璟拒不與、故為所擠。歴杭、相二州、政清毅、吏下無敢犯者。遷洛州長史。 睿宗立、以吏部尚書、同中書門下三品。玄宗在東宮、兼右庶子。先是崔湜、鄭愔典選、為戚近干奪、至迎用二歳闕、猶不能給、更置比冬選、流品淆并、璟與侍郎李乂、盧從愿澄革之、銓総平允。 太平公主不利東宮、嘗駐輦光範門、伺執政以諷。璟曰:「太子有大功、宗廟社稷主也、安得異議?」乃與姚崇白奏出公主、諸王於外、帝不能用。貶楚州刺史、歴兗冀魏三州、河北按察使、進幽州都督、以国子祭酒留守東都、遷雍州長史。 玄宗開元初、以雍州為京兆府、復為尹。進御史大夫、坐小累為睦州刺史、徙広州都督。広人以竹茅茨屋、多火。璟教之陶瓦築堵、列邸肆、越俗始知棟宇利而無患災。召拜刑部尚書。四年、遷吏部兼侍中。 帝幸東都、次崤谷、馳道隘、稽擁車騎、帝命黜河南尹李朝隠、知頓使王怡等官。璟曰:「陛下富春秋、今始巡守、以道不治而罪二臣、繇此相飭、後有受其敝者。」帝遽命捨之。璟謝曰:「陛下向以怒責之、以臣言免之、是過歸於上而恩在下。姑聽待罪於朝、然後詔還其職、進退得矣。」帝善之。累封広平郡公。広人為璟立遺愛頌、璟上言:「頌所以伝徳載功也。臣之治不足紀、広人以臣當国、故為溢辭、徒成諂諛者。欲釐正之、請自臣始。」有詔許停。 帝嘗命璟與蘇頲制皇子名與公主號、遂差次所封、且詔別擇一美稱及佳邑封上。璟奏言:「七子均養、詩人所稱。今若同等別封、或母寵子愛、恐傷鳲鳩之平。昔袁盎引慎夫人席、文帝納之、夫人亦不為嫌、以其得長久計也。臣不敢別封。」帝歎重其賢。 皇后父王仁皎卒、将葬、用昭成皇后家竇孝諶故事、墳高五丈一尺。璟等請如著令、帝已然可、明日、復詔如孝諶者。璟還詔曰:「儉、徳之恭。侈、惡之大也。僭礼厚葬、前世所誡、故古墓而不墳。人子於哀迷則未皇以礼自制、故聖人制齊、斬、緦、免、衣衾棺槨、各有度数。雖有賢者、斷其私懐。衆皆務奢、獨能以儉、所謂至徳要道者。中宮若謂孝諶踰制、初無非者、一切之令固不足以法。貞観時嫁長樂公主、魏徴謂不可加長公主、太宗欣納、而文徳皇后降使厚謝。韋庶人追王其父、擅作酆陵、而禍不旋踵。国家知人情無窮、故為制度、不因人以搖動、不變法以愛憎。比來人間競務靡葬、今以后父重戚、不憂乏用、高大寢、不畏無人、百事官給、一朝可就、而區區屢聞者、欲成朝廷之政、中宮之美爾。儻中宮情不可奪、請準令一品陪陵墳四丈、差合所宜。」帝曰:「朕常欲正身紀綱天下、於后容有私邪?然人所難言、公等乃能之。」即可其奏。又遣使賚綵絹四百匹。 會日食、帝素服俟變、録囚多所貸遣、賑卹災患、罷不急之務。璟曰:「陛下降徳音、卹人隠、末宥輕繋、惟流、死不免、此古所以慎赦也。恐議者直以月蝕脩刑、日蝕脩徳、或言分野之變、冀有揣合。臣以謂君子道長、小人道銷。止女謁、放讒夫、此所謂脩徳也。囹圄不擾、兵甲不瀆、官不苛治、軍不輕進、此所謂脩刑也。陛下常以為念、雖有虧食、将轉而為福、又何患乎?且君子恥言浮於行、願動天以誠、無事空文。」帝嘉納。後以開府儀同三司罷政事。 京兆人権梁山謀逆、敕河南尹王怡馳伝往按。牢械充滿、久未決、乃命璟為京留守、覆其獄。初、梁山詭稱婚集、多假貸、吏欲并坐貸人。璟曰:「婚礼借索大同、而狂謀率然、非所防億。使知而不假、是與為反。貸者弗知、何罪之云?」平縱数百人。 十二年、東巡泰山、璟復為留守。帝将發、謂曰:「卿、国元老、別方歴時、宜有嘉謀以遺朕。」璟因一二極言。手制答曰:「所進當書之坐右、出入観省、以誡終身。」賜賚優渥、進兼吏部尚書。十七年、為尚書右丞相、而張説為左丞相、源乾曜為太子少傅、同日拜。有詔太官設饌、太常奏樂、會百官尚書省東堂。帝賦三傑詩、自寫以賜。二十年、請致仕、許之、仍賜全禄。退居洛。乘輿東幸、璟謁道左。詔榮王勞問、別遣使賜藥餌。二十五年卒、年七十五、贈太尉、謚文貞。 璟風度凝遠、人莫涯其量。始、自広州入朝、帝遣内侍楊思勗驛迓之、未嘗交一言。思勗自以将軍貴幸、訴之帝、帝益嗟重。璟為宰相、務清政刑、使官人皆任職。聖暦後、突厥默啜負其彊、数窺邊、侵九姓拔曳固、負勝輕出、為其狙撃斬之、入蕃使郝霊佺伝其首京師。霊佺自謂還必厚見賞。璟顧天子方少、恐後干寵蹈利者夸威武、為国生事、故抑之、踰年、纔授右武衛郎将、霊佺恚憤不食死。張嘉貞後為相、閲堂案、見其危言切議、未嘗不失聲歎息。六子:昇、尚、渾、恕、華、衡。 昇、太僕少卿。尚、漢東太守。渾、與李林甫善、歴諫議大夫、平原太守、御史中丞、東京採訪使。在平原、暴斂求進、至重取民一年庸、租。使東畿、薛稷甥女鄭寡而美、渾使河南尉楊朝宗聘而己納之、薦朝宗為赤尉。恕、以都官郎中為劍南採訪判官、数貪縱不法、陰養刺客。天宝中、渾、恕、尚並以贓敗、渾流高要、恕流海康、尚貶臨海長史。華、衡亦皆坐貪得罪。広徳中、渾起為太子諭徳、物議穢薄之、留死江嶺。昆弟皆荒飲俳嬉、而衡最險悖、広平之風衰焉。 賛曰:姚崇以十事要説天子而後輔政、顧不偉哉、而舊史不伝。観開元初皆已施行、信不誣已。宋璟剛正又過於崇、玄宗素所尊憚、常屈意聽納。故唐史臣稱崇善應變以成天下之務、璟善守文以持天下之正。二人道不同、同歸于治、此天所以佐唐使中興也。嗚呼!崇勸天子不求邊功、璟不肯賞邊臣、而天宝之亂、卒悼其害、可謂先見矣。然唐三百年、輔弼者不為少、獨前稱房、杜、後稱姚、宋、何哉?君臣之遇合、蓋難矣夫!
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唐書巻九十六 列伝第二十一 房玄齢 遺愛 杜如晦 楚客 淹 元穎 審権 讓能 房玄齢字喬、斉州臨淄人。父彦謙、仕隋、歴司隸刺史。玄齢幼警敏、貫綜墳籍、善属文、書兼草隸。開皇中、天下混壹、皆謂隋祚方永、玄齢密白父曰:「上無功徳、徒以周近親、妄誅殺、攘神器有之、不為子孫立長久計、淆置嫡庶、競侈僭、相傾、終當内相誅夷。視今雖平、其亡、跬可須也。」彦謙驚曰:「無妄言!」年十八、挙進士。授羽騎尉、校讎祕書省。吏部侍郎高孝基名知人、謂裴矩曰:「僕観人多矣、未有如此郎者、當為国器、但恨不見其聳壑昂霄云。」補隰城尉。漢王諒反、坐累、徙上郡。顧中原方乱、慨然有憂天下志。會父疾、十旬、不解衣。及喪、勺飲不入口五日。 太宗以燉煌公徇渭北、杖策上謁軍門、一見如旧、署渭北道行軍記室参軍。公為秦王、即授府記室、封臨淄侯。征伐未嘗不從、衆爭取怪珍、玄齢獨收人物致幕府、與諸将密相申結、人人願盡死力。王嘗曰:「漢光武得鄧禹、門人益親。今我有玄齢、猶禹也。」居府出入十年、軍符府檄、或駐馬即辦、文約理盡、初不著。高祖曰:「若人機識、是宜委任。毎為吾兒陳事、千里外猶對面語。」 隠太子與王有隙、王召玄齢與計、對曰:「国難世有、惟聖人克之。大王功蓋天下、非特人謀、神且相之。」乃引杜如晦協判大計。累進陝東道大行臺考功郎中・文学館学士。故太子忌二人者、奇譖于帝、皆斥逐還第。太子将有變、王召二人以方士服入、夜計事。事平、王為皇太子、擢右庶子。太子即位、為中書令。第功班賞、與如晦・長孫忌・尉遅敬徳・侯君集功第一、進爵邗国公、食邑千三百戸、餘皆次封拜。帝顧群臣曰:「朕論公等功、定封邑、恐不能盡、無有諱、各為朕言之。」淮安王神通曰:「義師起、臣兵最先至、今玄齢等以刀筆吏居第一、臣所未喩。」帝曰:「叔父兵誠先至、然未嘗躬行陣勞、故建徳之南、軍敗不振、討黒闥反動、望風輒奔。今玄齢等有決勝帷幄・定社稷功、此蕭何所以先諸将也。叔父以親、宜無愛者、顧不可縁私與功臣競先後爾。」初、将軍丘師利等皆怙跋攘袂、或指畫自陳説、見神通愧屈、乃曰:「陛下至不私其親、吾属可妄訴邪!」 進尚書左僕射、監脩国史、更封魏。帝曰:「公為僕射、當助朕広耳目、訪賢材。比聞閲牒訟日数百、豈暇求人哉?」乃敕細務属左右丞、大事関僕射。 帝嘗問:「創業・守文孰難?」玄齢曰:「方時草昧、群雄競逐、攻破乃降、戦勝乃剋、創業則難。」魏徴曰:「王者之興、必乘衰乱、覆昏暴、殆天授人與者。既得天下、則安于驕逸。人欲静、徭役毒之。世方敝、裒刻窮之。国繇此衰、則守文為難。」帝曰:「玄齢從我定天下、冒百死、遇一生、見創業之難。徴與我安天下、畏富貴則驕、驕則怠、怠則亡、見守文之不為易。然創業之不易、既往矣。守文之難、方與公等慎之。」 會詔大臣世襲、授宋州刺史、徙国梁、而群臣讓世襲事、故罷刺史、遂為梁国公。未幾、加太子少師。始詣東宮、皇太子欲拜之、玄齢讓不敢謁、乃止。居宰相積十五年、女為王妃、男尚主、自以権寵隆極、累表辭位、詔不聽。頃之、進司空、仍総朝政。玄齢固辭、帝遣使謂曰:「讓、誠美徳也。然国家相眷賴久、一日去良弼、如亡左右手。顧公筋力未衰、毋多讓!」晉王為皇太子、改太子太傅、知門下省事。以母喪、賜塋昭陵園。起復其官。會伐遼、留守京師。詔曰:「公當蕭何之任、朕無西顧憂矣。」凡糧械飛輸、軍伍行留、悉裁総之。玄齢数上書勧帝、願毋輕敵、久事外夷。固辭太子太傅、見聽。 晩節多病、時帝幸玉華宮、詔玄齢居守、聽臥治事。稍棘、召許肩輿入殿、帝視流涕、玄齢亦感咽不自勝。命尚醫臨候、尚食供膳、日奏起居状。少損、即喜見于色。玄齢顧諸子曰:「今天下事無不得、惟討高麗未止、上含怒意決、群臣莫敢諫、吾而不言、抱愧没地矣!」遂上疏曰: 上古所不臣者、陛下皆臣之。所不制者、陛下皆制之矣。為中国患、無如突厥、而大小可汗相次束手、弛辮握刀、分典禁衛。延陀・鐵勒、披置州県。高昌・吐渾、偏師掃除。惟高麗歴代逋命、莫克窮討。陛下責其弑逆、身自将六軍、徑荒裔、不旬日拔遼東、虜獲数十万、殘衆・孽君縮氣不敢息、可謂功倍前世矣。 易曰:「知進退存亡不失其正者、其惟聖人乎!」蓋進有退之義、存有亡之機、得有喪之理、為陛下惜者此也。伝曰:「知足不辱、知止不殆。」陛下威名功烈既云足矣、拓地開疆亦可止矣。邊夷醜種、不足待以仁義、責以常礼、古者以禽魚畜之。必絶其類、恐獸窮則搏、苟救其死。且陛下毎決死罪、必三覆五奏、進疏食、停音楽、以人命之重為感動也。今士無一罪、驅之行陣之間、委之鋒鏑之下、使肝腦塗地、老父孤子・寡妻慈母望槥車、抱枯骨、摧心掩泣、其所以變動陰陽、傷害和氣、實天下之痛也。使高麗違失臣節、誅之可也。侵擾百姓、滅之可也。能為後世患、夷之可也。今無是三者、而坐敝中国、為旧王雪恥、新羅報仇、非所存小・所損大乎?臣願下沛然之詔、許高麗自新、焚陵波之船、罷應募之衆、即臣死骨不朽。帝得疏、謂高陽公主曰:「是已危惙、尚能憂吾国事乎!」 疾甚、帝命鑿苑垣以便候問、親握手與決。詔皇太子就省。擢子遺愛右衛中郎将、遺則朝散大夫、令及見之。薨、年七十一、贈太尉・并州都督、謚曰文昭、給班劍・羽葆・鼓吹・絹布二千段・粟二千斛、陪葬昭陵。高宗詔配享太宗廟廷。 玄齢當国、夙夜勤彊、任公竭節、不欲一物失所。無媢忌、聞人善、若己有之。明達吏治、而縁飾以文雅、議法處令、務為寬平。不以己長望人、取人不求備、雖卑賤皆得盡所能。或以事被讓、必稽顙請罪、畏惕、視若無所容。 貞観末年、以譴還第、黄門侍郎褚遂良言於帝曰:「玄齢事君自無所負、不可以一眚便示斥外、非天子任大臣意。」帝悟、遽召于家。後避位不出。久之、會帝幸芙蓉園観風俗、玄齢敕子弟汛掃廷唐、曰:「乘輿且臨幸。」有頃、帝果幸其第、因載玄齢還宮。帝在翠微宮、以司農卿李緯為民部尚書、會有自京師來者、帝曰:「玄齢聞緯為尚書謂何?」曰:「惟称緯好鬚、無它語。」帝遽改太子詹事。帝討遼、玄齢守京師、有男子上急變、玄齢詰状、曰:「我乃告公。」玄齢馹遣追帝、帝視奏已、斬男子。下詔責曰:「公何不自信!」其委任類如此。 次子遺愛、誕率無学、有武力。尚高陽公主、為右衛将軍。公主、帝所愛、故礼與它婿絶。主驕蹇、疾遺直任嫡、遺直懼、讓爵、帝不許。主稍失愛、意怏怏。與浮屠辯機乱、帝怒、斬浮屠、殺奴婢数十人、主怨望、帝崩、哭不哀。高宗時、出遺直汴州刺史、遺愛房州刺史。主又誣遺直罪、帝敕長孫忌鞫治、乃得主與遺愛反状、遺愛伏誅、主賜死。遺直以先勳免、貶銅陵尉。詔停配享。 杜如晦字克明、京兆杜陵人。祖果、有名周・隋間。如晦少英爽、喜書、以風流自命、内負大節、臨機輒斷。隋大業中、預吏部選、侍郎高孝基異之、曰:「君當為棟梁用、願保令徳。」因補滏陽尉、棄官去。 高祖平京師、秦王引為府兵曹参軍、徙陝州総管府長史。時府属多外遷、王患之。房玄齢曰:「去者雖多、不足吝、如晦王佐才也。大王若終守藩、無所事。必欲経營四方、捨如晦無共功者。」王驚曰:「非公言、我幾失之!」因表留莫府。從征伐、常参帷幄機祕。方多事、裁處無留、僚属共才之、莫見所涯。進陝東道大行臺司勳郎中、封建平県男、兼文学館学士。天策府建、為中郎。王為皇太子、授左庶子、遷兵部尚書、進封蔡国公、食三千戸、別食益州千三百戸。俄検校侍中、攝吏部尚書、総監東宮兵、進位尚書右僕射、仍領選。 與玄齢共筦朝政、引士賢者、下不肖、咸得職、當時浩然歸重。監察御史陳師合上拔士論、謂一人不可総数職、陰剴諷如晦等。帝曰:「玄齢・如晦不以勳旧進、特其才可與治天下者、師合欲以此離間吾君臣邪?」斥嶺表。 久之、以疾辭職、詔給常俸就第、醫候之使道相属。會病力、詔皇太子就問、帝親至其家、撫之梗塞。及未乱、擢其子左千牛構兼尚舍奉御。薨、年四十六、帝哭為慟、贈開府儀同三司。及葬、加司空、謚曰成。手詔虞世南勒文于碑、使言君臣痛悼意。 它日、食瓜美、輟其半奠焉。嘗賜玄齢黄銀帶、曰:「如晦與公同輔朕、今獨見公。」泫然流涙曰:「世伝黄銀鬼神畏之。」更取金帶、遣玄齢送其家。後忽夢如晦若平生、明日為玄齢言之、敕所御饌往祭。明年之祥、遣尚宮勞問妻子、国府官佐亦不之罷、恩礼無少衰。後詔功臣世襲、追贈密州刺史、徙国莱。 方為相時、天下新定、臺閣制度、憲物容典、率二人討裁。毎議事帝所、玄齢必曰:「非如晦莫籌之。」及如晦至、卒用玄齢策也。蓋如晦長於斷、而玄齢善謀、兩人深相知、故能同心濟謀、以佐佑帝、當世語良相、必曰房・杜云。 構位慈州刺史。次子荷、性暴詭不循法、尚城陽公主、官至尚乘奉御、封襄陽郡公。承乾謀反、荷曰:「琅邪顏利仁善星数、言天有變、宜建大事、陛下當為太上皇。請称疾、上必臨問、可以得志。」及敗、坐誅。臨刑、意象軒驁。構以累貶死嶺表。 如晦弟楚客、少尚奇節、與叔父淹皆没於王世充。淹與如晦有隙、譖其兄殺之。并囚楚客瀕死。世充平、淹當誅。楚客請于如晦、不許。楚客曰:「叔殘兄、今兄又棄叔、門内幾盡、豈不痛哉!」如晦感悟、請之高祖、得釈。 方建成難作、楚客遁舍嵩山。貞観四年、召為給事中。太宗曰:「君居山似之矣、謂非宰相不起、渠然邪?夫走遠者自近、人不卹無官、患才不副。而兄與我異支一心者、爾當如兄事吾而輔我。」楚客頓首謝、因擢為中郎将。毎入直、盡夕不釈仗、帝知而勞之、進蒲州刺史、政有能名、徙瀛州。後為魏王府長史、遷工部尚書、攝府事、以威肅聞。揣帝意薄承乾、乃為王諧媚用事臣、数言王聰睿可為嗣、人或以聞、帝隠恚。及王貶爵、暴其罪、以如晦功免死、廢于家、終虔化令。 淹字執礼、材辯多聞、有美名。隋開皇中、與其友韋福嗣謀曰:「上好用隠民、蘇威以隠者召、得美官。」乃共入太白山、為不仕者。文帝惡之、謫戍江表。赦還、高孝基為雍州司馬、薦授承奉郎、擢累御史中丞。王世充僭号、署少吏部、頗親近用事。洛陽平、不得調、欲往事隠太子。時封倫領選、以諗房玄齢、玄齢恐失之、白秦王、引為天策府兵曹参軍・文学館学士。嘗侍宴、賦詩尤工、賜銀鍾。慶州総管楊文幹反、辭連太子、歸罪淹及王珪・韋挺、並流越巂、王知其誣、餉黄金三百兩。 及踐阼、召為御史大夫、封安吉郡公、食四百戸。淹建言諸司文桉稽期、請以御史検促。太宗以問僕射封倫、倫曰:「設官各以其事治、御史劾不法、而索桉求疵、是太苛、且侵官。」淹嘿然。帝曰:「何不申執?」對曰:「倫所引国大體、臣伏其議、又何言?」帝悅、以資博練、帝敕東宮儀典簿最悉聽淹裁訂。 俄検校吏部尚書、参豫朝政。所薦贏四十人、後皆知名。嘗白郅懐道可用、帝問状。淹曰:「懐道及隋時位吏部主事、方煬帝幸江都、群臣迎阿、獨懐道執不可。」帝曰:「卿時何云?」曰:「臣與衆。」帝折曰:「事君有犯無隠、卿直懐道者、何不讜言?」謝曰:「臣位下、又顧諫不從、徒死無益。」帝曰:「内以君不足諫、尚何仕?食隋粟忘隋事、忠乎?」因顧群臣:「公等謂何?」王珪曰:「比干諫而死、孔子称仁、泄冶諫亦死、則曰:『民之多僻、無自立辟。』祿重責深、從古則然。」帝笑曰:「卿在隋不諫、宜置。世充親任、胡不言?」對曰:「固嘗言、不見用。」帝曰:「世充愎諫飾非、卿若何而免?」淹辭窮不得對。帝勉曰:「今任卿已、可有諫未?」答曰:「願死無隠。」 貞観二年疾、帝為臨問。卒、贈尚書右僕射、謚曰襄。始、淹典二職、貴重於朝矣、而亡清白名、獲譏當世。子敬同襲爵、官至鴻臚卿。 如晦五世孫元穎、貞元末及進士第、又擢宏詞。数從使府辟署、稍以右補闕為翰林学士、敏文辭、憲宗特所賞歎。呉元濟平、論書詔勤、遷司勳員外郎、知制誥。穆宗以元穎多識朝章、尤被寵、拜中書舍人・戸部侍郎、為学士承旨、以本官同中書門下平章事、建安県男。自帝即位、不閲歳至宰相、搢紳駭異。甫再期、出為劍南西川節度使・同平章事、帝為御安福門臨餞。 敬宗驕僻不君、元穎毎欲中帝意以固幸、乃巧索珍異献之、踵相躡於道、百工造作無程、斂取苛重、至削軍食以助裒畜。又給與不時、戍人寒飢、乃仰足蠻徼。於是人人咨苦、反為蠻内覘、戎備不脩。大和三年、南詔乘虚襲戎・巂等州、諸屯聞賊至、輒潰、戍者為郷導、遂入成都。已傅城、元穎尚不知、乃率左右嬰牙城以守。賊大掠、焚郛郭、殘之、留数日去、蜀之宝貨・工巧・子女盡矣。初、元穎計迫、将挺身走、會救至乃止。文宗遣使者臨撫南詔、南詔上言:「蜀人祈我誅虐帥、不能克、請陛下誅之、以謝蜀人。」由是貶邵州刺史。議者不厭、斥為循州司馬。官属崔璜。紇干臮・盧并悉奪秩、分逐之。元穎死於貶所、年六十四。将終、表丐贈官、乞歸葬。詔贈湖州刺史。 元穎與李徳裕善、會昌初、徳裕當国、因赦令復其官。 弟元絳、終太子賓客。元絳子審権。 審権字殷衡、第進士、辟浙西幕府。挙拔萃中、為右拾遺。宣宗時、入翰林為学士、累遷兵部侍郎・学士承旨。懿宗立、進同中書門下平章事、再遷門下侍郎、出為鎮海軍節度使・同平章事。龐勛乱徐州、審権與令狐綯・崔鉉連師掎角、饋粟相銜、王師賴濟。勛破、進検校司空、入為尚書左僕射・襄陽郡公。繼領河中・忠武節度使。卒、贈太子太師、謚曰徳。 審権清重寡言、性長厚、居翰林最久、終不漏禁近語。在方鎮、視事有常處、要非日入未始就内寢。坐必斂、常若對大賓客。或晝日少息、則顧直将解簾。即旁無人、自起徹鉤、手擁簾徐下、乃退。與杜悰倶位将相、悰先進、故世謂審権為「小杜公」。 子讓能、字群懿、擢進士第、從宣武王鐸府為推官、以長安尉為集賢校理。喪母、以孝聞。又辟劉鄴・牛蔚二府、稍進兵部員外郎。蕭遘領度支、引判度支桉。僖宗狩蜀、奔謁行在、三遷中書舍人、召為翰林学士。方関東兵興、調發綏徠、書詔叢浩、讓能思精敏、凡号令行下、處事値機、無所遺算、帝倚重之。從還京師、再遷兵部尚書、封建平県子。 李克用兵至、帝夜出鳳翔、蒼黄無知者。讓能方直、徒歩從十餘里、得遺馬、褫紳為靮乘之。朱玫兵逼乘輿、帝走宝雞、獨讓能從。翌日、孔緯等乃至。俄而進狩梁。是時棧道為山南石君渉所毀、天子間関嶮、讓能未嘗暫去側。帝勞曰:「朕失道、再違宗廟。方艱難時、卿不少捨朕、蓋古所謂忠於所事邪!」讓能頓首曰:「臣世蒙国厚恩、陛下不以臣不肖、使扞牧圉、臨難苟免、臣之恥也。」帝次褒中、擢兵部侍郎・同中書門下平章事。 於時、嗣襄王熅即偽位、彊藩大鎮附者已十八、貢賦不輸行在、無以備賞勞、衛兵往往乏食、君臣搏手無它策。讓能建遣大使入河中、以諭王重榮、重榮果奉詔。已而京師平、進中書侍郎、徙封襄陽郡公。官吏多汙偽署、有司皆欲論死、讓能以脅從不足深治、固爭之、多所全貸。昭宗立、進尚書左僕射・晉国公、賜鐵券、累進太尉。 李茂貞守鳳翔、自大順後兵寖彊、恃有功、不奉法、朝廷弱、弗能制。會楊復恭走山南、茂貞欲兼有梁・漢、請以師問罪、未報而兵出、帝忿其專、然不得已從之。山南平、詔茂貞領 興元・武定、而以徐彦若為鳳翔節度使、分果・閬州隸武定軍。茂貞怨、不赴鎮、上章語悖慢。又詒書讓能詆責、以為助守亮為乱、抑忠臣、奪己功、其言醜肆。京師匈懼、日数千人守闕下、候中尉西門重遂出、請與茂貞鳳翔地、為百姓計。答曰:「事出宰相、我無預。」茂貞益怨。帝怒、詔讓能計議、且趣調發、経月不就第。 時宰相崔昭緯陰結茂貞及王行瑜、讓能所言悉漏之、茂貞乃以健兒数百雜市人、候昭緯與鄭延昌歸第、擁肩輿譟曰:「鳳翔無罪、幸公不加討以震驚都輦!」昭緯曰:「上委杜太尉、吾等何知?」市人不識孰為太尉、即投瓦石妄撃、昭緯等走而免、遂喪其印。帝愈怒、捕首惡誅之。京師爭避乱、逃山谷間。讓能諫帝曰:「茂貞固宜誅、然大盜適去、鳳翔国西門、又陛下新即位、願少寬假、以貞元故事姑息之、不可使怨望。」帝曰:「今詔令不出城門、国制橈弱、賈生慟哭時也。朕顧奄奄度日、坐観此邪!卿為我圖之、朕自以兵属諸王。」讓能曰:「陛下欲削滌僭嫚、剛主威、隆王室、此中外大臣所宜共成之、不宜專任臣。」帝曰:「卿、元輔、休戚與我均、何所避?」泣曰:「臣位宰相、所以未乞骸骨者、思有以報陛下、敢計身乎!且陛下之心、憲祖心也、但時有所未便。它日臣蒙晁錯之誅、顧不足弭七国患、然敢不奉詔!」 景福二年、以嗣覃王為招討使、神策将李鐬副之、率師三万送彦若赴鎮。昭緯内畏有功、密語茂貞曰:「上不喜兵、一出太尉。」茂貞乃悉兵迎戦盩厔、覃王敗、乘勝至三橋。讓能曰:「臣固豫言之、臣請歸死以紓難。」帝涕下不能已、曰:「與卿決矣!」再貶雷州司戸参軍。茂貞尚駐兵請必殺之、乃賜死、年五十三。 弟彦林、官御史中丞。弘徽、戸部侍郎、皆及誅。帝痛之、後贈太師。 子光乂、次子曉、不復仕。曉入梁、貴顯于世。 賛曰:太宗以上聖之才、取孤隋、攘群盜、天下已平、用玄齢・如晦輔政。興大乱之餘、紀綱彫弛、而能興仆植僵、使号令典刑粲然罔不完、雖数百年猶蒙其功、可謂名宰相。然求所以致之之蹟、逮不可見、何哉?唐柳芳有言:「帝定禍乱、而房・杜不言功。王・魏善諫、而房・杜讓其直。英・衛善兵、而房・杜濟以文。持衆美效之君。是後、新進更用事、玄齢身處要地、不吝権、善始以終、此其成令名者。」諒其然乎!如晦雖任事日淺、観玄齢許與及帝所親款、則謨謀果有大過人者。方君臣明良、志議從、相資以成、固千載之遇、蕭・曹之勛、不足進焉。雖然、宰相所以代天者也、輔賛彌縫而藏諸用、使斯人由而不知、非明哲曷臻是哉?彼揚己取名、瞭然使戸曉者、蓋房・杜之細邪!